《2024年 東京全生園訪問記」》by 賴澤君(台湾の建築家、樂生院IDEA Taiwan会員)。
《2024年 東京全生園訪問記」》by 賴澤君(台湾の建築家、樂生院IDEA Taiwan会員)。
2024年9月末、ついに東京全生園(宮崎駿監督の「となりのトトロ」の故郷)を訪れる機会が訪れました。そこで長年会えていなかったIDEA Japanの理事長、森元美代治さんにも再会することができました。数年ぶりにお会いした森元さんは視力が弱くなっており、介護員の方が丁寧に起床や着替えの手伝いをして、車椅子に座って私たちとお話しできるようにされていました。森元さんは私の声を聞いてすぐに私たち家族のことを思い出し、私の夫や子供たちの近況を親しみを込めて尋ね、さらに楽生院の李添培会長についても特別に挨拶を伝えてくださいました。私が準備していた李会長からのビデオメッセージは残念ながらその場でネット接続ができず見せられませんでしたが、会長のメッセージとして「全生園と楽生院の世界遺産登録の推進を共に続けてほしい」との激励の言葉を伝えました。森元さんもその思いを受け止め、全生園の最新出版された回顧の映像集を私に贈ってくださいました。パンデミックで何年も会えなかったのに、私たちは今も互いの想いに通じ合い、世界の同士とともに共有している変わらぬ未完の志に心から感動しました。
全生園と楽生院の世界遺産登録は、二人の理事長の生涯の使命とも言えるもので、その姿に触れて私は涙をこらえきれませんでした。後に森元夫人にもお会いし、昼食はIDEA国際理想協会の「女子会」となりました。Ayakoさんからは、昨年全生園のいくつかの重要な歴史的建物が取り壊されたことを聞きました。私は信じられない思いで、「まるで楽生院の危機を目の当たりにした日本の友人たちが『遅れてごめんなさい』と語ったときのようだ」と感じました。私たちは過去20年間、ベルギーや北京、フィリピン、日韓の国際ハンセン病大会に参加し続け、楽生院のようなハンセン病隔離の歴史的遺構への世界的な関心を訴え続けてきました。世界には80以上の国々、数百、数千もの集落があり、患者やその家族が無限の排除と非人道的な扱いに苦しんできました。彼らはある意味で第一次・第二次世界大戦の最後の被害者とも言えるでしょう。
この30年、日本では人権弁護士団が彼らの訴訟を熱心に支え、国家賠償や名誉回復を果たすなどの尽力をしてきました。こうした遺跡は国に尊重され、歴史的資産として保存されるべきではないでしょうか。IDEA Japanや森元夫妻に出会うたびに、失われた青春や子孫を持つことを許されなかった苦しみを聞かされてきました。これこそ私たちが20年にわたって世界大会に参加し、国境や民族を超えた世界遺産登録の推進を目指してきた原点です。偉大な建築や計画を保存するだけでなく、彼らの犠牲、百年の孤独と無力さを世界に伝えたいと願っています。こうした療養所、孤島、開拓村といった遺構を大切にしたいと心から願っています。しかし、20年後の今、東京の全生園で貴重な歴史的建物が無情にも取り壊されてしまった現実を目の当たりにしました。
楽生院事件以降、台湾の立法院は「台湾ハンセン病患者人権保障及び補償条例」を制定し、文化財保護法の改正により、50年以上の公共建築物の保存と修復計画が求められるようになりました。今日の全生園の事例も、どうか間に合いますようにと願っています。この件を東京大学院の研究室にも持ち込み、教授と共に全生園の歴史的建物の修復可能性について議論しています。年配の方々を孤独な戦いにさせず、彼らの想いや希望を守り抜くため、これからも力を尽くしたいと心から思います。
全生園の小さなレストランの女主人が私たちの活動に感動し、楽生院の保存や行政ビルの復元について聞くと、「どうか近いうちに東京ハンセン病市民学会で台湾の経験を共有してください」と招いてくださいました。また、八重樫夫妻には、彼らが森元夫婦の人生を記録し、私たちがその輝かしい努力と人生の闘いを共に証しできるようにしてくださったことに深く感謝しています。
著書/
『青春の夢が蘇る、楽生院八十年 台湾ハンセン病患者写真集』
共著:IDEA Taiwan 張雲明、李添培、賴澤君、宗田昌人 。
『証言・ハンセン病 もう、うつむかない』筑摩書房
(ペンネーム/村上絢子)
『告発 ハンセン病医療 ー 多磨全生園医療過誤の記録』
皓星社
共著:村上絢子、内藤雅義、並里まさ子、和泉眞藏
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